宗教の背景と自分の宗教を作ろうと思った理由
宗教史に関する本を読んでみて分かったことは、宗教の基盤には哲学としての考え方があるということ、そしてその哲学に基づいて行動してきた人々が教祖として、世界に認知される結果になったということです。
宗教はヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教などから脈々とその教えを変容しながら受け継がれてきたものです。その宗教ですが、現代ではインターネットという存在によって、その集団間での繋がりや、宗教に対する信奉性が薄まっています。
一方で、宗教の考えは人々にとって、有用であることは間違いありません。その根底には世界平和及び、より良い人生の送り方が書かれてあるのは事実ですから。
私が普段用いているX(旧Twitter)においても、宗教の教え、またそれに準ずるより良く生きるための知恵、考えというものが投稿され、それに対して多数のいいねやリプライがあるのも事実。
つまり、人は宗教的な考え方に理解を示しているものの、宗教との体感的な距離感(私とは関係ない世界という考え)によって宗教を受け入れがたく感じているのだと思われます。
ここで思うわけです。
インターネット世界を生きる私、そんな私に合った現代的な宗教を作ることによって、自分の生き方をより良くできるのではないかと。
自分の生き方を振り返る際の一つの指針をもつだけで、人の行動というのは変わるものですから。
つまり、宗教法人を作ろうとか、そんな話ではないのでご注意ください。
大切にしたい考えを見つける
要するに、自分がより良くなるためのルールを作ろうというものになりますので、私が特に大事だと考えるものを羅列してみましょう。
- 善く生きる…自他にとっての善の道へ進む。悪意で人に接しない。
- 成長を続ける
- 人を傷つけない…肉体的に怪我などをさせないように。
- 悪口を言わない
- 正しく知る…情報について鵜呑みにせず、事実を捉える。
- 正しく考える…感情的ではなく、論理的に考える。
- 不要な殺生をしない…虫や植物などの小さな命も大切にする。何かを守るために限る。
- 精神活動での非殺生・非暴力…自身の空想やネット上でも相手を傷つけずに生きる。
このような感じでしょうか。
私は悪口が苦手なので、言わない、できるだけ聞かないようにしているのです。
しかし、インターネット上ではそういった悪意を持った強い言葉が目につきます。
インターネットを現実世界とことなる精神性の世界とするならば、その精神活動においても私は非殺生・非暴力を貫くことがことが望ましいでしょう。
言葉で相手が傷つき、亡くなってしまうこともある時代。
達成するための修行
修行というと、一気に厄介そうに見えますが、要するに「考え」だけでなく「行動」を考えるということになります。
考えるだけでは何も変わりませんので、そういう意味では私の宗教はかなり実践的な宗教だと思います。考えるだけでなく、毎日の継続や成長を求めるのですから。
- 知識を得る(本、インターネット等から)
- 心を落ち着かせる訓練を行う(瞑想、散歩などをする)
- 自分の欲を捨て、他者を活かす ※
- 得た知識や自身の考えを実践する
昔から宗教家や哲学者によると、人の不幸は「欲」によって起こると考えられていました。
自分が持っていないものにばかり注目することによって、不幸になっていく。
逆に言えば、自分が得ているもの、持っているもの(特に知識や技術)に着目し、それを他者のために使っていくことで、幸せに近づいていけるのではないかという考えです。
第一回目の終わりに
私のこの考えは、本に書かれていた、仏教、そしてジャイナ教の考えを元にして考えてみました。
そして、私は神を信じている(?)ものの、唯一神のようなそんな絶対的な象徴については信じていません。
どちらかというと、ファンタジー小説をよく書くので、精霊などの方がまだ近しい存在のような気がします。なので、どちらかというと、「大いなる意志」に代表される、大きな者の存在の方がまだ信じられるところですね。
今は神よりも上位の規則があるのではないかと考えているのですが、結局のところどうなのでしょうか。
コメント