私だけの宗教を作る:②宗教観を考える

優しい世界を目指して~Making for a kinder world~

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宗教観:世界は粒子からできている

 この世の始まりには一つの大きな粒子の集まりがあった。
 それは宇宙に存在するを全て引き寄せ、飲み込み、輝き続ける星であった。
 しかし、その粒子の集まりも、時間の流れには逆らえなかった。
 
 この宇宙の始まり、「ビッグバン」。
 それは、宇宙をつくり、この世に数多の原初の粒子をばら撒いた。
 粒子は集まり、形を作り、大きな粒の集まりは光を生み出し、そして大地となった。

 集まった粒子の中には若い粒子と老いた粒子があった。
 若い粒子はより大きく集まろうとし、老いた粒子は周囲に自身の粒子を渡していった。
 最期に老いた粒子はその勤めを終え、原初の粒子に戻り、若い粒子の一部となっていく。

 より大きく集まった粒子は、輝き、小さな粒子を惹きつけ、より大きくなっていく。
 そして、老いた時に、より多くの粒子を周囲の粒子に与えていく。

 世界が終わるのは、長い長い未来。
 それこそ、地球が大きな粒子の塊である太陽に飲み込まれ、太陽の終わりと共に、宇宙に新たな粒子として還るよりも、遥か未来。
 ビッグバンが炸裂したところにできた穴。
 そこに全ての粒子は戻っていく。
 そしてできた最も大きな粒子の集まりは、輝き、また老いる時を待つのだ。

大切にしたいこと

 全てのものは粒子からできている。
 原子について学習した皆さんなら、この考えに納得してくれるに違いないと確信しています。

 しかし、ここからが特殊で、肉体的なものに表される原子を基本とした粒子と、魂を中心に表される粒子の存在について私は考えています。

 魂もまた粒子の集まりであるということ。
 年老いた魂は、死と共に解け、新たな魂の材料として世界に放たれる。

 小さい子どもが持つ生まれる前の記憶や、前世の記憶というのは、この老いた魂の一部が再利用されるさいに核として構成されたことが原因だと考えます。
 このように、老いた粒子が解け、新たな粒子として再構成されることで、新たな命を作る原子という粒子と魂を作る原初の粒子、それぞれが次世代につながっていくのです。

 そして、新たな集団となった粒子。
 それは、人でも、物でも、星でもなんでも良いのですが、それらは大きなものに引き寄せられる性質を持ちます。
 物理学で言う「引力」ですね。

 大きな粒子を持つ人、それは成長の過程によって、自身の内に宿る粒子を大きくしてきたことでしょう。
 そんな人の周りには自然と人が集まってくるのです。
 徳の深い人、器の大きい人等と言われるそんな人々は、長年の修練や成長を繰り返してきたことでしょう。
 それは、技術的なものかもしれませんし、精神性のものかもしれません。

 我々人間は、光るものを持つ人に惹かれ、憧れる性質があります。
 そして、中身の薄い人、平凡なもの、または自分未満と感じるものに対して冷淡になる性質もあります。
 それは全て、内面に存在している粒子の量が関係しているのです。

 その粒子を大きくする方法は、いくつかあります。
 最も重要なのは、成長を続けること。
 多くのことを吸収しようとする姿勢。
 それによって、自分にできることを増やし、多くの人の助けになることが、最も大きな粒子を大きくする方法です。

 また、命を大切にすることも大切です。
 粒子は巡り、新たな生命を生み出すことがあります。
 その生命は、大きな粒子となって初めて多くの他の物が生み出される要因になります。
 偉大な科学者が新たな発見をするように、偉大な親が優れた子を育てるかのように。
 生命は大切にし、生まれたばかりの小さな存在から、大きな存在になることを待つことが重要です。
 その大きな存在になった者は、年老いて世界の理に還るまでに、周囲に対してより大きな影響を与えることができるようになるのですから。

 自らが大きな存在になるための殺生、すなわち、食事については、必要な分を知り、必要以上に消費しないことが大切です。
 世界には肥満の方も多くいますが、ぶくぶくと太り、原子の流れを滞らせるのは、世界にとって良いことではありません。
 自分が太っても、周りが痩せてしまう原因となります。
 世界の原子の量は決まっているのですから。

神はいない

 私の宗教に神はいません。
 世界は粒子であり、それは最期には一つに戻ると言う点では、大きな自然こそが神だと言えるのかもしれませんが、神という小さな言葉では不十分でしょう。

 イエス・キリスト、ブッダ、ゼウス、様々な神や仏がこの世には存在していますが、それらは、ある一つの粒子を集めるための考えの一つと判断しています。
 私の宗教もそうですが、多くの宗教は似たようなバックボーンが存在しています。
 それは、多くの人を幸せにしようというもの。
 よりよい人生を送るための指針としようという考え。

 宗教は多くの者のためになろうとし、生から死まで、その人の一生を共にすることで、信者のためにと行動する機会を得られ、多くの粒子を集めることができるでしょう。
 それによって、より大きくなった各宗教の粒子は、さらに多くの人を惹きつけ、成長しつづけていくのです。
 無論、それを実現させるためには、多くの修練を行い、心身ともに成長し続けている者が多くいることが前提になるので、腐敗した宗教ではこうはならないでしょう。
 長い年月、日々受け継ぎ、発展させてきた方々には敬意を。

私の宗教での救いとは

 私の考える宗教観において、救いとは、全てのものが一つに還ることが決まっていること。
 死しても、それは終わりではなく、また新たな命の源になること。

 老いた自身を作っていた粒子は世界に解け、世界中に散っていく、そしてまた新たな形で世界に満ちていく。
 そして、育ててきた魂は、次の世代の幾つもの魂の新たな核となっていくのだ。

 死してもまた、新たな世界で新たな挑戦ができる。
 私のように成長を望むものにとっては、よりよいものになることだろう。

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